沖縄県 西表島
台湾人炭坑夫たちの隠された歴史を証言する
ドキュメンタリー映画
協賛
石垣やいま村
(ロケ地提供)
後援
石垣市 竹富町教育委員会
台北駐日經濟文化代表處那霸分處
台湾文化センター
沖縄タイムス社 琉球新報社
琉球華僑総会 那覇日台親善協会
(順不同、敬称略)
ご協賛のお願い
皆様におかれましては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
この度は私たちドキュメンタリー映画『緑の牢獄』へのご支援をご検討くださいますことを、心より御礼を申し上げます。
さて、この度は『海の彼方』に続く八重山ドキュメンタリーシリーズ第二作 、西表炭鉱の台湾人坑夫をテーマとした映画『緑の牢獄』への協賛金を募りたく、お願い申し上げる次第です。
この作品は、かつて、過酷な労働と待遇で、圧制炭鉱として恐れられた西表炭鉱の“歴史”と、そこに生きた人々の“記憶”を、後世に伝えるものです。当時の建造物も廃墟と化し、密林に飲み込まれ、炭鉱で働いていた関係者は、現在ではご高齢になり、存命の方は少なく、その記憶もいま失われようとしています。このような時だからこそ、今撮らなくては、と私たちは2014年からカメラを回し始めました。島で独り暮らしの台湾人のおばぁの家に通いだした私たちは、西表炭鉱の縮図ともいえる彼女の人生に、日本と台湾の複雑な歴史と、そこで生きた人々の物語を直に感じました。私たちは、それを映画という体験によって後世にも伝えたいのです。
私たちは、手材や調査を重ねるうちに、西表炭鉱を描くにはドキュメンタリー映像だけでは足りないと判断しました。本作では当時の情景を台湾人おばぁの証言や記憶に基づき、九州と台湾の炭鉱研究者のアドバイスによって細部を補完し、炭鉱が生み出した悲しき歴史を劇映像によって表現します。 その為、製作に2500万円の製作予算を組んでいます。
2017年にはクラウドファンディングを行い、多くの方からご支援を頂きましたが、私たちの力不足から目標額を集めきることができず、制作が延期となっておりました。その後、各国際映画祭の企画ピッチング(ドキュメンタリーの国際共同制作を募る場で、制作者が実際に制作予算を集めるために、様々な国の放送局や配給会社、支援ファンドに対して企画をプレゼンする)に積極的に参加し、日本・台湾・フランス・オートストリアで共同製作を組み、資金調達をスタートさせるなど、尽力しておりますが、依然として500万円の不足額がある状況です。この500万円はおおよそ、11月にロケを予定している再現パートの製作費にあたります。
つきましては、誠に恐縮ではございますが、どうにか本作を世に出したい想いから、個人・団体・企業の皆様へ改めてご協力を賜りたくお願いする次第です。私たちとしても大変心苦しいのですが、皆様の力に頼らざるをえません。本作の趣旨・内容をご理解の上、格別のご高配を賜りますようお願い申し上げます。
映画『緑の牢獄』製作委員会
映画監督 黄インイク
なぜ本作をつくるのか 〇知られざる西表炭鉱を残したい
琉球弧の南端に位置する西表島。希少な動植物が生息するこの島は、近年は世界自然遺産登録で盛り上がるほど“秘境の島”として有名ですが、この島に大規模な炭鉱があったことは殆ど知られていません。島の西部には炭層が存在し、採炭が始まった明治19年から第二次大戦後の一時期まで、およそ60余年の歴史があるのです。
当時、黒いダイヤとも呼ばれ、重要なエネルギー源だった石炭。そのエネルギー源を求め、国策的に採炭が始まりました。最盛期の1930年代半ばには、国内外から集められた1400人もの炭鉱労働者がいたと記録が残っています。西表炭鉱はその労働の過酷さ、坑夫たちを徹底管理した逃げ場のない労働環境から、悪名高い圧制炭鉱として有名でした。しかも、マラリアの蔓延する有病地でもありました。坑夫の多くは九州の炭鉱地帯や沖縄本島、台湾、朝鮮などの島外から、その実情を知らされずに半ば騙されて連れてこられた者も多かったと言います。劣悪な労働環境の中、昼夜を分かたず働き続けた結果、命を落とす坑夫も多く、逃亡を企てる坑夫は跡を絶たなかったようです。大自然の島にあるそれは、さながら「緑の牢獄」でした。
日本近代化の影ような暗い歴史を含め、西表炭鉱には重要な歴史があります。これは、世間にほとんど周知されていない、忘れられた歴史となりつつある現状を鑑みても、多くの人に知っていただきたい事実です。
〇消えていく歴史の証言者
残念ですが、当時を知るための資料が豊富にあるとは言えない状況です。閉坑後、その暗い歴史が故に積極的に語ろう残そうとする雰囲気は、炭鉱会社や坑夫、島民の中からは起こるはずがなかったのでしょう。本格的な調査が始まったのは、閉坑から30数年後。ジャーナリストの三木健氏が当時の炭鉱関係者に聞き取り調査を始めます。三木氏が十数年かけて関係者の証言をまとめた一連の書籍は、現在では大変価値の高い資料です。当時三木氏の取材に応じた多くの人が、今はもうその声を聞くことはできなくなっています。私たちが取材を始めた2014年には、当時を生きた人々の記憶もまさに失われようとしていました。辛うじて間に合ったと言えるかもしれません。
西表島に残された炭鉱の遺構群がジャングルに飲み込まれていく様子は、現在の私たちに歴史の時間を感じさせます。それが跡形もなく自然と同化し、人々の記憶からも消えていくのにそう時間はかからないでしょう。
History 西表炭鉱の成り立ち
〇明治:囚人労働から始まった西表炭鉱
西表島で石炭の採掘が始まったのは1886(明治一九)年、三井物産会社が明治政府の後押しで、沖縄本島の囚人を使役して始めたのが最初でした。囚人を坑内労働に使うやり方は、北海道や九州でもありましたが、それが沖縄でも取り入れられます。これが西表炭鉱の不幸な出発でもありました。坑夫たちはマラリアにかかってばたばたと倒れ、数年後にはつぶれて三井は手を引いてしまいました。
〇大正時代:坑夫1000人超え
大正時代に入ると、琉球炭鉱や沖縄炭鉱などが坑夫一千人余を使って採掘に乗り出してきます。1917(大正六)年ごろの第一次欧州大戦後の石炭需要に支えられて、活発に採炭が行われるようになりました。しかし、その一方で坑夫たちの労働は過酷さを増し、納屋制度のもとで地獄の苦しみをなめることになります。
〇納屋制度
納屋制度というのは納屋頭のもとで、坑夫の生活や労働の一切をとりしきる制度で、九州の炭坑からもたらものです。四六時中、人繰りという労務が目を光らせ、逃亡者が出ると捕えて見せしめのリンチを加えました。出口のない島は、まるで牢獄のように坑夫たちをがんじがらめにしました。
〇斤券制度
また炭鉱では、そこでしか通用しない「斤券」が使われました。坑夫たちの賃金は、会社側の発行する斤券によって支払われ、坑夫たちはこの券をもって炭坑の購買所で日用品を手に入れました。本来この斤券は、本金と呼ばれた現金の裏付けがなければいけないのですが、会社側はそんなことをせず、紙に斤数を書いたものに、会社のハンコを押したものを発行していました。ですから炭坑がつぶれたり、坑主が逃げてしまうと斤券はただの紙切れとなりました。坑外では使えませんので、これは坑夫たちの逃亡防止の機能も果たしていたのです。
〇昭和:ジャングルに出現した近代化設備
昭和に入ると、新たに浦内川支流の宇多良の方に丸三炭坑宇多良鉱業所が開坑され、西表炭坑の主舞台はここに移っていきます。この炭坑が開かれたときの写真を見ると、ジャングルのなかにひとつの炭坑村が出現したことがわかります。坑夫たちの納屋、三百人も収容できる劇場兼集会場、坑主・野田の邸宅といったように、ジャングルを切り開いて村がつくられました。アセチレンのガス灯が不夜城のようについていたといわれています。当時としてはかなり近代的設備だったようですが、戦時体制に入っていくに従って坑夫たちの処遇は厳しさを増し「圧制の炭坑」として坑夫たちからは恐れられました。
〇台湾人坑夫
西表炭鉱では大正時代からたくさんの台湾人坑夫が働いたとされます。朝鮮人からの坑夫もいましたが、台湾人の方がはるかに多かったと記録に残っています。台湾北部の基隆には、炭田があり炭坑があり、そのあたりの坑夫たちが流れてきたとみられます。坑主は坑夫をつなぎ止めるためにモルヒネを使っていたという話もあります。
〇炭鉱の衰退
戦争に突入すると、西表でも日本軍の砲台建設や飛行場建設が始まり、坑夫たちが軍夫としてこの建設作業にかり出されました。沖縄の近海にも敵の潜水艦が遊よくするようになり、船による石炭の輸出も困難となり、次第に炭坑はすたれてゆきます。皮肉なことに、坑夫たちが炭坑のくびきから解放されたのは日本の敗戦によってでした。大日本帝国の崩壊とともに西表炭鉱はつぶれ、坑夫たちは解放されたのです。戦後一時期、米軍が石炭採掘を試みますが、長く続きませんでした。
参考文献:
三木健「西表炭坑写真集(新装版)」ニライ社,2003年
三木健「聞書西表炭坑」三一書房,1982年
佐藤金市「西表炭坑覚書」ひるぎ書房,1980年
2000年09月 月刊やいま 特集/第4回やしの実大学公開講座in八重山 (講師:三木健)
STAFF
監督・プロデューサー:黄インイク
ラインプロデューサー:菅谷聡
撮影・制作:中谷駿吾
音楽:Thomas Foguenne
歴史顧問:三木健 (西表炭坑研究家)
歴史考察:張偉郎
歴史資料提供:三木健、井上修(日本ドキュメンタリストユニオン)
美術再現協力:石垣金星
監督・プロデューサー
黄インイク
( 黄胤毓 /Huang Yin-yu/コウ・インイク)
台湾・台東市生まれ。沖縄県那覇市在住。台湾・国立政治大学テレビ放送学科卒業、東京造形大学大学院映画専攻修士を取得。大学在学中『幼獅文芸』『映画鑑賞』など台湾の専門誌に映画評論や研究テキストを発表し始める。
2010年、ドキュメンタリーデビュー作『五谷王北街から台北へ』を発表。当作は台湾の出稼ぎタイ人労働者をテーマとしたエスノグラフィ映画であり、杭州アジア青年映画祭「アジアの光」青年短編コンペティション部門、北京インディペンデント映画祭などに出品。
2013年、私的ドキュメンタリー作『夜の温度』がスイス・ニヨン国際ドキュメンタリー映画祭国際コンペティションに招待、ブエノスアイレス国際ドキュメンタリー映画祭国際コンペティション、杭州アジア青年映画祭、台北映画祭最優秀ドキュメンタリー賞にノミネートされる。
2014年、河瀬直美がプロデュースを担当する奈良国際映画祭とスイスジュネーブ芸術大学の共同映画制作プロジェクト「Grand Voyage:壮大な航海」に参加、奈良県田原村で一ヶ月滞在し、短編ドキュメンタリー『杣人』を制作する。
2015年、映画製作会社「木林電影」を台湾に設立。沖縄を拠点に、戦前からの台湾移民や日台間の歴史などをテーマに、シリーズとしてドキュメンタリー映画の製作を開始。
「八重山の台湾人」を題材にした企画『狂山之海』が2015年ベルリン国際映画祭主催の若手映画製作者向けプログラム「ベルリナーレ・タレンツ」(Berlinale Talents)のドキュメンタリー企画部門「ドック・ステーション」(Doc Station)に選出。
「西表炭鉱」を題材にした企画『緑の牢獄』がスイス・ニヨン国際ドキュメンタリー映画祭のピッチングセッションで大賞を受賞する。
2016年、企画『狂山之海』の第一部『海の彼方』が台湾で劇場公開し、台北映画祭や大阪アジアン映画祭、ハワイ国際映画祭などへ選出される。2017年には日本での一般劇場公開も果たした。
撮影・制作
中谷駿吾
東京造形大学造形学部デザイン学科映画専攻卒業。2014年から黄インイク監督の「狂山之海」 プロジェクトにカメラマンとして参加。「木林電影」の子会社として「株式会社ムーリンプロダクション」を設立し代表に就任。黄インイク監督作品の撮影担当、日本での制作をサポートしている。撮影作品は、2015年田辺 ・ 弁慶映画祭で弁慶グランプリを受賞した柴野太朗監督の『モラトリアム ・ カットアップ』(2015)、黄インイク監督『海の彼方』(2016) などがある。
協賛特典 1口1万円から 口数に応じてささやかながらの特典をお贈りします
※企業・団体様へは、20万円からのスポンサーシップをご提案させていただいております。事務局までお気軽にお問合せ下さい。
協賛金のお振込み先
◉ゆうちょ銀行
【記号】17060【番号】18485651
【口座名】 緑の牢獄 製作委員会(ミドリノロウゴク セイサクイインカイ)
※郵便局以外の金融機関からお振込みをされる場合の口座情報は下記となります。
【銀行名】ゆうちょ銀行
【店名】七〇八(読み ナナゼロハチ)
【店番】708
【預金種目】普通預金
【口座番号】1848565
【カナ氏名】ミドリノロウゴク セイサクイインカイ
※振込手数料はご負担いただきますようお願い申し上げます。